Tuesday, May 31, 2016


次男の苦しみと悲しみ(17)「東」ヨーロッパにも「悪」がいる!!!


日本への帰国が近くなると、クラブのマーケティングマネージャーが私を食事へと誘ってくれました。マーケティングマネージャーと2人のマネジメントスタッフと食事を頂きながら、いろいろな情報を聞くことができました。マーケティングマネージャーからは、このようなことを言われました。「我がクラブは、あなたの息子にとって、西ヨーロッパ各国のクラブへの軒道になります。毎週末、チェコ1部リーグの試合を見に、さまざまなクラブのスカウトメンバーがチェコを訪ねてきます。特に隣のドイツのブンデスリーガのスカウトメンバーがよく来ます。あなたの息子は若手選手としては非常にポテンシャル(可能性)がある選手で、ドイツでプレーするチャンスが多いです。それは、あなたの息子本人自身にも、そして我がクラブにとっても大きなビジネスとなります。しかし、それを実現するためにあなたの息子は次の2つのことをしなければなりません。まず、怪我をしないことです。我がクラブはチェコのスポーツ保険が高いため加入していません。普通の健康保険に加入しています。しかし、普通の健康保険を利用して普通の病院で治療を受けても、スポーツでの怪我のほとんどのケースは、治すことができません。場合によって、選手をスポーツ怪我専門の病院があるドイツまで行かせています。これは、クラブ側が負担をしています。このような状況のため、息子さん自身が個人でスポーツ怪我の保険に加入する必要があります。さらに、息子さんが我がクラブ組織とプロ契約を交わしていますが、チームの監督と個人契約を交わさなければいけません。息子さんは1部リーグのAチームの試合に一定の出場をするため、監督にコミッション(賄賂(わいろ))を支払わなければなりません。そうしないと、監督が息子さんを4部リーグのBチームにまわしてしまいます。西ヨーロッパのスカウトメンバーはAチームの試合しか見ないため、もしBチームにまわされると、息子さんがスカウトされるチャンスを失ってしまいます。お父さん、ぜひ息子さんがこの2つのことを守れるように、皆でがんばりましょう。」ということでした。

私はこれに対し「息子には東京マネジメント会社があるので、私個人が決めることはできません。日本に帰国した後、そのマネジメント会社に今の話を伝えてから決めましょう。」と、返事をしました。この話に私は驚きませんでした。なぜなら、東ヨーロッパ各国の悪い経済状況によるサッカー界での非常識なことがたくさんあることは、ずっと聞いていました。なので、次男に余計な心配をさせないよう、次男には何も言わずに日本へ帰国しました。

 日本に帰国後、すぐに東京マネジメント会社に連絡を入れ、チェコでのマーケティングマネージャーから聞いた2つの話について伝えました。マネジメント会社は、すぐに日本国内のスポーツ保険専門の会社で、次男を保険に入れました。その保険は、日本国内・国外でも使える保険でした。監督へのコミッションを支払うことについては、次男がクラブ組織と契約を交わす時、マネジメント会社側の責任者が立会いしていましたが、監督にコミッションを支払うという話は一切なかったので、マネジメント会社側が私に「この点については様子を見ながら検討をします」と話してくれました。その後、マネジメント会社側が、次男のことに関して英語でコミュニケーションが出来る日本人スタッフの方に任すことにしました。それ以降、その方が社長と相談をしながら次男のことを決めるようになりました。この人は、次男が初めて東京ヴェルディに入団したときに出会った、あの「悪質」なコーチスタッフの方の弟でした。これまで私は、何かあるとマネジメント会社の社長に直接連絡を入れていましたが、それ以降は「悪質」なコーチスタッフの方の弟と、やり取りを行うことになりました。

 私は、チェコにいる次男の様子を、ずっと見ていました。次男は、1部リーグのAチームの試合には途中出場をしていましたが、一定の出場はありませんでした。さらに、4部リーグのBチームの試合にもまわされた時がありました。2008年~2009年シーズンが20095月に終ってみると、次男が1部リーグのAチームに途中出場した試合数は、シーズン後半の15試合の内の5試合とチェコカップの完全出場の1試合で、1得点と1アシストの結果でした。その結果は、シーズンの後半でチームに入団をしたばかりの若手選手の次男にとって、まずまずの結果とクラブ情報で報道されていました。さらに、クラブ全体のこのシーズンの結果は、チームにとってすばらしい結果でした。チェコ1部リーグの16チームの内3位となり、チェコカップでは優勝という結果でしたこの結果により、クラブはUFEAカップ(ヨーロッパチャンピオンカップ大会)に出場することになりました。


 

Monday, May 30, 2016

次男の苦しみと悲しみ(16)名門クラブの、「嘘」や「騙し」、「人種差別」や「権利の乱用」の5年間がもたらした影響を抱えながら、新たなスタート

その後、東京マネジメント会社はヴェルディ側と交渉を行い、人材育成金の分割払い方法に関して話を進めていきました。ヴェルディ側は、その分割払い方法には賛成したのですが、支払いについて次男と直接約束を結ぶという厳しい条件をつけてきました。東京マネジメント会社やチェコのクラブと結ぶでもなく、次男自身と約束を結ぶということになったのです。しかし、どうしても移籍したい一心で、仕方なく東京マネジメント会社も次男も私もヴェルディのこの条件に同意しました。同意後、ヴェルディがその支払い約束を正式な文書にし(添付4参照)、次男はそれにサインを行いました。これで、次男が正式にヴェルディからチェコのクラブへ完全移籍することになりました。ヴェルディでの苦しい5年間の生活が、このような形で終わることとなりました。

 15歳という若さで夢と希望を持って、純粋な精神で「田舎」の沖縄を出て、東京ヴェルディと出会ってしまいました。この出会いで、サッカー選手の次男にとって大事な5年間を失ってしまいました。この5年間で、日本とエジプト両方のサッカーの才能を持っている次男は、さまざまな結果を残すはずでした。しかし、実際にはさまざまな悪いことばかりでした。最低な教育を受けさせられたこと、17歳の若さでヨーロッパにプレーするチャンスを逃したこと、怪我を悪化させられたこと、その怪我の治療のために借金ができてしまったこと、実力を証明出来ないよう試合に出場させられなかったこと、ヴェルディから移籍をする際、高い人材育成金の条件を付けられたことなど、悪いことばかりでした。私は、次男がヴェルディで過ごした5年間が、これからの彼の人生にどれくらい影響をもたらすのかと、絶えず心配しています。私は元サッカー選手として、プロサッカー選手になるまでの道のりは平坦ではないという事実はよく認識しています。さらに、プロサッカー選手になった後でも、この道のりはでこぼこであるという事実もよく分かっています。しかし、ヴェルディでの次男の道のりはでこぼこではなく、「嘘」や「騙し」、「人種差別」や「権利の乱用」などの道のりでした。これらのことは一般社会によくあっても、スポーツ界には一切あってはならないことです。


2009年シーズン


20092月、次男はチェコの1部リーグの「FKテプリツェ」というクラブへ完全移籍のため、チェコに向いました。FKテプリツェへ移籍後、マスコミの報道によると、次男は試合に出場し、チームの勝利に貢献していました。離れた日本にいる私達家族は喜びながらも、まだ二十歳になったばかりの次男が、生まれ育った日本と全く違う環境でどう向き合っていくのか、若干気になっていました。

ずっと次男がプレーしている姿を見たかった私は、直接プレーしている姿を見るため327日から47日までの11日間の日程で、1人でチェコへ向かいました。ちょうどその時、ヨーロッパ各国でのサッカーリーグの後半が始まったばかりでした。

 「FKテプリツェ」というクラブは、東ヨーロッパのチェコ共和国のクラブです。首都「プラハ」よりバスで約1時間の離れた「テプリツェ」という小さな田舎町に位置しています。私はこの小さな町に着いてから、クラブのホームスタジアムを拝見させていただき、チームの監督やマネージャーや選手たちと対面することが出来ました。大変心の温まる雰囲気を感じました。さらに、町を案内していただきながら、FKテプリツェというクラブが地元民にとって、名門のクラブだと感じました。また、クラブの責任者からクラブの方針などの具体的な説明を受けました。このクラブはサッカープロチームを2チーム持っており、1つのAチームは、チェコ1部リーグに加盟し完全なプロなチームで、もう1つのBチームは、チェコの4部リーグに加盟して、プロを育成するためのチームでした。私はこの町にいる間は、リーグの後半が始まったばかりでしたが、両チームの2試合ずつを拝見させていただきました。確かに、完全プロの1部リーグのAチームは、レベルの高い選手たちでサッカーのビジョンを持っているチームだという印象を受けました。一方、プロを育成するための4部リーグのBチームは非常に反則や荒いプレーが多く、まさに「アメリカンフットボール」のようなサッカーでした。次男はリーグの後半が始まったからAチームの試合に途中出場し、チームの勝利に貢献しました。さらに、私がいる間に行われたAチームの2試合にも途中出場をし、活躍していました。私がテプリツェの町にいる間、次男が楽しくプレーする姿を久しぶりに見ることができ、次男がサッカーをやっている環境や生活環境などを確認することが出来ました。次男はすでにこの小さな町の人々の愛情に囲まれているような感じを受けました。おもしろいことに、次男のことをその当時ブラジル代表で有名なストライカー「ロナウジーニョ」の名を付けて「日本ロナウジーニョ」と、報道されていました




Sunday, May 29, 2016


次男の苦しみと悲しみ(15)名門クラブの「人材育成金」の詐欺



同じことを私が東京マネジメント会社に話し、ぜひ次男が日本国内でプロ選手としての実績を作るため、日本のリーグのクラブに紹介してくださいと頼みました。その後、東京マネジメント会社は次男の移籍先を探し始めましたが、日本リーグに移籍するのは簡単ではありませんでした。なぜなら、ヴェルディに在籍していた2年間に、プロ選手として1度も正式な試合に出場したことがなかったからです。そしてさらに、ヴェルディから次男が移籍する場合、移籍先のクラブは1,000万円を「人材育成金」として、ヴェルディに払わなければならない、という条件がありました。また、東京マネジメント会社は移籍先を見つかる力がありませんでした。結局、ヴェルディで実績をつくる機会を与えられなかったことで、次男の移籍は困難になりました。その後、東京マネジメント会社とヴェルディの「悪質」なコーチスタッフの方から、以前考えていたヨーロッパで次男をプレーさせることについての話が出てきました。東京マネジメント会社は私に、ヨーロッパへ移籍した場合のメリットとデメリットについて現実的な話しをしてくれました。しかし、東京にいる次男には、強くヨーロッパへの移籍を勧めていました。同じようにヴェルディの「悪質」なコーチスタッフの方も、次男へヨーロッパでのプレーを勧めていました。それで次男は、ヨーロッパでプレーする夢ばかりを見るようになっていました。次男にはユース時代の時の実績がありましたが、この実績だけでヨーロッパで次男を受け入れてくれるクラブがあるのか、不安に思いました。また、ヴェルディが決めた1,000万円の人材育成金を支払う条件があったことも、心配でした。

結果として、次男が東京マネジメント会社の提案と、ヴェルディの「悪質」なコーチスタッフの方の説得を信じて、希望と夢を持ちながら、移籍先不明のままヨーロッパへ旅立つことになりました。

まず、次男が最初に行ったのはポルトガルで、これは東京マネジメント会社の紹介でした。ポルトガルの1部リーグの有名なクラブの練習に、1週間参加することができ、クラブが次男の実力を認め年俸約400万円のオファーを出してくれました。しかし、ヴェルディが求めた人材育成金1,000万円の支払いを断られてしまいました。仕方なく、次男は東京マネジメント会社の指示のもと、ポルトガルを去り東ヨーロッパのチェコに向いました。

チェコでも、1部リーグのクラブの練習へ参加するようになりました。東京マネジメント会社の話によると、このチェコのクラブチームは西ヨーロッパのさまざまなクラブチームから多くの選手をスカウトされている実績があることから、もし次男がこのクラブに入ってプレーすることができれば、西ヨーロッパのクラブに移籍するチャンスを得られるという話でした。チェコのクラブでの練習参加後、クラブ監督の要求により、次男はチームのトルコの冬キャンプに1週間同行することになりました。トルコの冬キャンプでは、次男の実力が認められクラブが年俸約400万円のオファーを出してくれました。しかし、ヴェルディが求めた人材育成金1,000万円の支払いはあまりにも高すぎるということで、クラブ側が次男を獲得するために、人材育成金の1,000万円の70%を負担し、残りの30%を次男の負担にするという提案を出しました。この提案に、東京マネジメント会社が次男の正式代理人として同意しました。これで、次男はチェコの1部リーグの「FKテプリツェ」というクラブと、200921日から2年半のプロ契約をサインすることになりました。その直後、東京マネジメント会社から私にヴェルディの人材育成金の支払いのことで相談がありました。それは、次男の負担分になっている30%(約300万円)をどうやってヴェルディに支払うかということでした。当時は、次男が東京マネジメント会社に立て替えてもらっていたイタリアでの治療費の返済中でしたので、私にも次男本人にもヴェルディに支払うための金銭的な余裕がありませんでした。そのことを踏まえて、東京マネジメント会社がチェコのクラブの負担分70%を預かって、それを会社側からヴェルディに一括払いするではなく、1年半かけて分割払いにするという提案を出してきました。1年半後には、次男自身が残りの30%を支払うことができるようになっていることを見越しての提案で、この提案をヴェルディ側に伝え交渉をする、という話に、次男も私も同意する以外の方法はありませんでした。




Saturday, May 28, 2016


次男の苦しみと悲しみ(14)名門クラブの「悪質計画」とその影響


2008年シーズンは、ヴェルディにとって最悪の結果で終ってしまいました。次男はこの時成人を迎えましたが、ヴェルディで味わった「人種的差別」や「不公平な扱い方」などにより、大変苦しいシーズンとなりました。2009131日には、次男とヴェルディとの契約が満了になります。しかしその前に、200812月下旬にヴェルディから、次男との契約を更新したいという話しが出てきました。契約更新の内容は、次男の年俸を30%アップさせ、360万円から480万円にする、というオファーでした(添付3参照)。私はこの内容を聞いて、またヴェルディの新たな「疑惑」の行動が始まると思いました。なぜなら、次男はプロになってから2つのシーズンが過ぎましたが、その間に正式な試合に1分も出場する機会を与えられず、実績を残すことができませんでした。それなのに、どうしてヴェルディが次男との契約更新を希望し、そしてさらに年俸を30%アップさせるのでしょうか。私はヴェルディのこの行動に、もしかするとヴェルディが2008年シーズンで次男を正式な試合に1分も出場させないことは「計画的」なことだったのではないかと考えるようになりました。このような考えに至るまでに、次の3つの出来事がありました。

まず1つ目ですが、20063月にオランダのアヤックスクラブが次男にオファーをしてきた時のことです。そのとき、ヴェルディ側の理由によりこのオファーはだめになり、ヨーロッパでプレーする次男の夢を実現するチャンスを逃す結果となってしまいました。

そして2つ目ですが、2008年シーズンが始まる前に、ヴェルディと次男との約束内容についてです。その約束の内容としては、もし、万が一シーズンの半ばごろ(78)までに次男に試合の出番がなかった場合、ヴェルディ側より他のチームを紹介しレンタル移籍をさせる、というものでした。しかし、その約束をヴェルディは守ってくれませんでした。

最後の3つ目についてですが、当時イタリアのセリエAで活躍していた元ヴェルディの若手選手のことです。この選手は次男の親友でもあり、先輩でもあります。この選手がヴェルディからイタリアへ移籍する際、ヴェルディは大反対していました。しかし、この選手の家族とヴェルディとの間で激しい口論が起こり、友好的ではない雰囲気で移籍していました。この選手がイタリアへ移籍した後も、次男は彼と情報交換を行い、時には彼からアドバイスをいただいたりしていました。このような2人の関係を、ヴェルディの責任者はよく知っていました。なので、ヴェルディとしてはこの選手と同じように次男は移籍されることを恐れているようでした。

これら3つの出来事から、2008年シーズンにヴェルディが次男を正式な試合に出場させなかったことは「計画的」であったのではと考えるに至りました。もし、次男が正式な試合に出場し活躍した場合、他のチームから声がかかり、ヴェルディから移籍してしまう可能性が高くなります。それを防ぐためにヴェルディが次男を正式な試合に出場をさせなかったのではないかと思いましたし、このようなやり方はヴェルディでは珍しくないことを私は確信しています。なぜなら、ヴェルディと関わって約5年の間に、似たようなことが多々あったからです。

成人したばかりの次男は、ヴェルディとの契約更新を断りました。若手選手である次男にとって大事なことは、契約金よりも何よりも試合に出場することでした。その希望と夢はヴェルディでは、いくら頑張って努力しても実現出来ませんでした。なので次男は、本気で「愛する」ヴェルディとの契約を終えて、自分の夢を実現できる場に移籍を考え始めました。そして、移籍先を見つけるためには、正式代理人である東京マネジメント会社に頼るしかありませんでした。私は次男へ移籍についてこうアドバイスしました。「移籍するならまず日本国内のクラブへ移籍しなさい。お前はプロになってからまだ日本リーグで実績がない。だからヨーロッパへの移籍は難しい。」


Friday, May 27, 2016


次男の苦しみと悲しみ(13)これは、名門クラブの監督とマネジメントの「哲学」


リーグが残り4試合になると、ヴェルディが4試合の内最低限として2試合を勝たないとJ2に落ちる状況に置かれました。ヴェルディにとってブラジル人選手の中でも一番大事な中盤の選手が、ついに警告(イエローカード)4枚もらっていたので、リーグの2試合を欠場となりました。しかし、この選手が残り4試合中2試合を欠場しても、あとの2試合には出場することができるためヴェルディの残留争いでは十分戦えるはずでした。しかしこの時期に、リーグ戦と同時に天皇杯の試合も行われました。本来ならばリーグの残留争いの状況に置かれたヴェルディにとって、天皇杯の試合よりもリーグの試合の方が大事でした。しかしこの監督は、天皇杯の試合にブラジル人の大事な選手を出してしまいました。天皇杯に出場したブラジル人選手はまたさらに「レッドカード」をもらい、退場となりました。天皇杯の試合のレッドカードにより2試合が欠場となり、リーグの試合では4枚警告(イエローカード)2試合を欠場、併せるとこのブラジル人選手は4試合の欠場となってしまいました。結局、残留争いの残り4試合全てに、この一番大事なブラジル人選手が欠場することになってしまったのです。なぜ、大事なリーグの残留争いの立場に置かれたチームの監督が、そこまで大事ではない天皇杯の試合に補欠の選手や若手選手を出さず、一番大事な選手を出してしまったのでしょうか。

1129日に、残留争いの4試合の内1つ目の試合がありました。相手は横浜FMでした。その試合の前々日に、ヴェルディの練習で紅白戦が行われましたが、次男はどちらのチームにも入っていませんでした。紅白戦後、次男のことを気にしていたヴェルディのあるコーチスタッフの方が、次男を慰めるため「今のチームの状況が悪いから、お前は紅白戦にも出せない」と話したそうです。しかし、試合当日の1129日になると、4ヵ月間怪我をしていた選手がベンチ入りの18人の選手の1人に入っており、試合の後半15分にも出場していました。この選手は、726日の磐田戦で怪我をしてしまったのですが、この怪我以来、試合には出場していませんでした。なぜ、監督は試合感覚のない選手を残留争いの大事な試合に出したのでしょうか。

リーグの最終戦は126日に行われた川崎との試合でした。この試合中、ヴェルディの監督が相手にとって一番厄介なヴェルディの攻めの選手を引いて、代わりに中盤の選手を入れました。この行動の結果により、ヴェルディはJ2に落ちることが確定してしまいました。その最終戦の後、監督はロッカールームで泣きながら選手たちに「J2に落ちたのは神様が決めた運命だ」と、話しました。2008年シーズンでは、J2へ降格という結果になってしまいました。

サッカーでよく言われていることですが、どの監督でも自分の哲学や考え方を持っており、その監督自身の哲学や考え方を評価する一番の方法として、結果を出す以外の方法はありません。2008年シーズンの結果を踏まえてみると、当時のヴェルディの監督が選手の「実力」を無視し、自分の「好み」や「立場の強い人」に言われたことで物事を判断し、「人種差別的な考え」を行う監督であることが明らかになりました。

一方、この監督と同時にヴェルディを運営していた「フロント」についてですが、ヴェルディがJ2に落ちたことは監督だけの責任ではありません。監督と共にチームを運営していた「フロント」のさまざまな行動を体験した私は、この「フロント」にも責任があると感じました。なぜ、「フロント」がリーグ中に監督の相次ぐ誤った判断を正しくしてくれなかったのか。なぜ、「フロント」がヴェルディの将来のために、監督に正しいチーム作りの方法を指導しなかったのか。もし「フロント」がこの指導を監督に行っていたにも関わらず監督が聞かなかったのであれば、なぜ「フロンと」がこの監督を解雇しなかったのか。監督1人の責任ではなく、運営の「フロント」側にも大きな責任があるのではないかという印象を受けました。当時の東京ヴェルディは、組織的に大きな問題を抱えているという強い印象を受けました。

Wednesday, May 25, 2016


次男の苦しみと悲しみ(12)名門クラブの「軽い」監督の「実力無視」、「好み」、「差別的と下手な行動」で「夢」を絶望的に



はじめに、当時のヴェルディの監督についてですが、この監督が選手の「実力」を無視して、自分の「好み」と「立場の強い人」に言われたことで物事を判断する「差別的」な監督でした。具体的に説明すると、当時のチームの中にはブラジル人の選手が3人いました。彼らがどんな行動を行っても、監督は指導や指示を行いませんでした。3人は練習中でも試合中でも監督を無視し、自分のやりたいことだけを行っていたようです。私もヴェルディの試合で、次のような光景を見たことがあります。ある試合の際、ブラジル人選手が交代されました。この時、当然のマナーですがこの監督はその選手に「お疲れ」と握手をしようとしていましたが、この選手は自分が交代されたことに対する怒りで、監督と握手せず何かを言いながら監督の手を強く振り払って、グランドを後にしました。しかしその翌週には、この選手はいつものように試合に出場していました。これで選手が監督のことを尊敬せず、軽く見ていたことが分かりました。また、この3人のブラジル人選手は、チームのことを考えずに自分が帰りたい時にブラジルに帰国していました。それにも関わらず、この監督はこの3人のブラジル人選手を試合に出し続けました。そして、この監督は日本人の老年の選手や元日本代表選手を「神様」のように扱い、彼らには何も指導を行いませんでした。このような事実を、2008年リーグの34試合を通して確認することができます。例えば、この監督は、選手一人一人のコンディションや活躍など関係なく、毎試合にほぼ同じ選手ばかりを試合に出していました。ほとんどの補欠の選手たちには、出場のチャンスを与えませんでした。とくに、中盤(MF)のある2人の選手の内1人は元日本代表でしたが、試合ではほとんど走れないし活躍もしていないのに、いつも試合に出場していました。もう1人の選手は、試合中のプレーにほとんど関わらず、運動量も少ないのに毎試合に出場していました。この2人の選手はチームにとって、迷惑な選手ではないかと思いました。この他の多くの試合の流れを見ても、さまざまなことが分かります。例えば、2008510日の大分戦でヴェルディは0-2で負けていましたが、ヴェルディの柱になるブラジル人攻撃の選手たち(FW)は、相手の守りの選手(DF)に読まれて、自分のプレーが出来ない状態でした。ここで試合の流れを変えるため、監督が選手の交代を行うはずでしたが交代せず、ヴェルディが負けたままで試合が終了しました。翌週の518日の清水戦では、ヴェルディが4-0で勝っていましたが、本来ならばチームが40で勝っている時に補欠の選手を試合に出場させるチャンスを与えるはずですが、監督はそれを与えないまま試合を終えました。この監督は、チームが勝っていても負けていても、選手の交代が出来ない監督でした。89日の新潟戦では、ヴェルディは4-0で勝っていましたが、中盤(MF)の元日本代表選手は、4回目の警告(イエローカード)をもらいました。これでリーグの規則により、この選手は次の2試合を欠場ということになりました。本来ならばここでこの選手をすぐに交代して、次の試合の準備のため補欠の選手を出場させるべきでしたが、警告をもらった選手を交代せずに別の選手を交代しました。その5分後、この4回目の警告をもらっていた元日本代表の選手は、また反則によりレッドカードをもらい、退場になってしまいました。

914日の千葉戦は、ヴェルディは0-2で負けていました。ヴェルディの選手1人が退場となりましたが、この監督は攻めの選手を引いて、代わりに守りの選手を入れました。しかし、この交代で試合の流れは変わらず0-2のまま試合は終了しました。その翌週である920日の大分戦では、先週の千葉戦とまったく同じ状況で、ヴェルディは0-2で負けていました。この試合でヴェルディの選手は1人退場となりましたが、監督が攻めの選手を引いて、代わりに守りの選手を入れ、先週と同じようにヴェルディは負けてしまいました。その試合の後、報道のインタビューでこの監督はヴェルディが負けた原因は審判の判断ミスだと答えていました。923日の清水戦では、約3ヵ月間怪我のためトップチームの試合にもサテライトチームの試合にも出場していなかったストライカーの選手を試合に出しました。当然のことですが、この選手は活躍せずヴェルディはこの試合でも負けてしまいました。その試合の後、この監督は報道インタビューに対しヴェルディが負けた原因として、怪我をしている選手が多いからということを話していました。

928日のガンバ大阪戦で、ヴェルディが億円単位の契約で獲得し、ヨーロッパに2年間いた元日本代表選手はベンチ入りの18人の一人でしたが、試合に出場しませんでした。その試合の後、この監督が報道インタビューで、この選手を試合に出さなかった理由について、現在この選手のコンディションが悪いから試合に出さなかったと説明していました。しかし不思議なのは、どうしてコンディションの悪い選手をベンチ入りの18人の選手に選んだのでしょうか。なぜ、その代わりとして若手選手やコンディションの良い選手を選ばなかったのでしょうか。

105日の名古屋戦の試合の前日、老年のストライカーが風邪を引いてしまい、監督が次男に「お前はベンチ入りの18人に選ばれる可能性があるから、万全な準備をしなさい」と伝えてきました。そして試合当日、老年のストライカー自身が、風邪がまだ治らないから自分は試合に出場しないと監督に伝えたにも関わらず、前日に声をかけた次男を無視して体調不良の老年のストライカーをそのまま18人のメンバーに選びました。なぜ、この監督は若手ストライカーの次男にチャンスを与えてくれなかったのでしょうか。


次男の苦しみと悲しみ(11)名門クラブ監督の「いじめ」、責任者の「嘘」と「約束破り」



8月のある日の練習が終わってから、次男はヴェルディの幹部(2007年シーズンにヴェルディの監督を務めていた方)に呼ばれ、「お前が頑張っていることは、ヴェルディのみんなが認めているよ。しかし、監督だけはお前のことを全然見ていない。」と、言われました。実際、シーズンの半ばを過ぎたにも関わらず、次男はまだ一度も試合に出場していませんでした。次男からこの話を聞いた私は、マネジメント会社に相談しました。相談後、マネジメント会社は次男の正式な代理人として、ヴェルディと相談を行いました。相談の内容は、ヴェルディと約束した条件(添付2参照)に従え、試合に出場できる可能があるチームへの期限付き移籍を依頼するものでした。しかし、マネジメント会社のこの提案は、ヴェルディ側に完全に断られました。私は早速ヴェルディの強化部長に連絡を入れ、2月の宮崎キャンプの時に約束した通り、次男をサッカー選手として育成するために試合に出場が可能なチームへの期限付き移籍が行えるチームを紹介してくださいと頼みました。しかし強化部長からは、「こういったことは自分の権限外であるため、直接お父さんから取締役強化本部長に相談をしてください」と言われました。その直後、取締役強化本部長に連絡を入れ相談しましたが、その方にもきっぱりと断られてしまいました。結局、次男は相変わらずヴェルディの「嘘」と約束「破り」で、シーズンの最後までサテライトチームの選手という扱いを受けました。2008年シーズンでは、次男はトップチームの34試合に出られるベンチ入りの18人の選手に選ばれたのはたったの3試合だけでした。そして、実際に試合に出場した時間は1分もありませんでした。2008年シーズンを通して、ヴェルディで登録されている全ての選手の内、トップチームの正式試合やカップ戦で1分でも出場しなかったのは次男1人だけでしたので、次男にとってこのことは辛く悲しいことでした。チームが良い結果を残していたら、幸いとなっていましたが、チームはJ1からJ2に落ちてしまいました。結局、次男はプロ選手になってから2つのシーズンを過ごしましたが、正式な試合には1分も出場していません。ここで、そういうことは次男みたいな若手選手にとってよくあることではないかと言われるかもしれません。しかし、次男が2年連続正式な試合に出場できなかった理由を見てみると信じられないことだらけでした。その理由を具体的に挙げてみると、まず1年目の2007年シーズンはヴェルディのメディカルスタッフの「怠慢」と「認識と知識不足」による次男の怪我の悪化により、治療に1年かかってしまったことです。そして2年目の2008年シーズンでは、次男の活躍に注目していたのが、ヴェルディの関係者の方々(監督以外)と次男の正式代理人であるマネジメント会社、そして元サッカー選手で父親である私の三者です。ヴェルディの関係者の方々は、監督以外は次男の頑張りを認めており、サテライトチームでの活躍を評価していました。マネジメント会社は代理人として2008年シーズン全てのヴェルディの試合を分析し、私も元サッカー選手として、そして父親としてヴェルディの34試合全てを確認しました。マネジメント会社の分析と、私自身の確認によりヴェルディの監督と運営(フロント)に対して、さまざまな事実が明らかになりました。

Tuesday, May 24, 2016


次男の苦しみと悲しみ (10)名門クラブの監督及びスタッフの人種差別が始まった!!



20083月、マネジメント会社から私に連絡がありました。その内容は「ヴェルディとの話し合いを行い、結果が出ました。話し合いの結果、息子さんの2008年シーズンの条件とイタリアでの治療費負担の内訳を出しました。両方を文書にしてありますので、それをお父さんに送ります。それについて息子さんの意見も聞きます。お父さんも息子さんもこれでよければ、会社側は息子さんの代理として、正式にヴェルディとサインを交わします。」という内容でした。その直後、マネジメント会社から文書が2(添付2参照)、私に届きました。すぐに次男と連絡を取り、相談しました。その結果は、私も次男もその条件に同意しました。それを私からマネジメント会社に伝え、ヴェルディ側と正式なサインを交わすようお願いしました。

ヴェルディは宮崎キャンプを終えて、東京に戻りました。その後、次男はチームのさまざまな練習試合に出場しました。1年間怪我をしていたとは思えないほど活躍し得点も取りましたが、2月末のある練習試合でひざに軽い怪我をしてしまいました。しかし次男は、リハビリに励んで怪我を治し4月半ばごろには完全復帰しました。4月半ばごろというのは2008年シーズンが始まったばかりで、次男はトップチームのベンチ入りの18人選手ではなく、サテライトチーム(2)のメンバーとして頑張っていました。サテライトチームのコーチが次男の活躍をトップチームの監督にずっと伝えていたが、トップチームの監督が完全に無視していたようです。5月になると、去年(2007年シーズン)ヴェルディでレンタル移籍選手として頑張り、元のチームに戻っていたブラジル人のフォワードストライカーが、元のチームとの間に問題が起きたことで再びヴェルディに億円単位の契約を結び完全移籍してきました。そのこともあり、若手ストライカーである次男は、トップチームのベンチ入りの18人選手にますます入れなくなりました。しかし、次男はがむしゃらにサテライトチームで頑張っていました。

7月に入ると、億円単位の契約でヴェルディに完全移籍してきたブラジル人のフォワードストライカーが、ヨーロッパに移籍することになりました。若手ストライカーである次男にとって、トップチームのメンバーに入るチャンスが来るだろうと私は期待していました。その期待通り、しばらくしてから次男からトップチームのベンチ入りの18人選手に入れた、という連絡が入りました。そのときの次男の嬉しい声が非常に印象に残りました。私は、元サッカー選手として、そして父親として、この連絡を受け安心しました。そして、次男に「監督やマネージャーから何かアドバイスがあった?」と聞きましたが、次男は「誰からもアドバイスや話がない」と、答えました。私はこの次男の返答を受け、ヴェルディの監督やスタッフに対しおかしいと思いました。サッカー界では、若手選手がプロ選手になって始めてトップチームのベンチ入りの18人選手に選ばれたとき、監督やスタッフがアドバイスを行い励ましてくれるのは当然なことだからです。しかし、とにかくベンチ入りの18人選手に選ばれたことは、次男にとっても、そして私達家族にとっても喜ばしいことでした。これから次男が試合のメンバーに入り、そして試合に出場するチャンスが多くなると私達家族は思っていました。しかし8月になると、さらにヴェルディが2年間ヨーロッパでサッカーをしていた元日本代表のフォワードストライカーと億円単位の契約を行い獲得しました。この選手は元日本代表でしたが、ヨーロッパに居た2年間の間に試合に出場した回数がたったの3試合でした。この選手を獲得したことにより、次男が試合に出場するチャンスが低くなってしまいました。しかし、次男がサテライトチームで頑張っていました。



Monday, May 23, 2016

次男の苦しみと悲しみ (9)名門クラブが自分で怪我をさせた選手に、治療費の大部分を負担させる!!


2008年シーズン

2008年シーズンの準備は、110日に始まりました。次男はチームと合流し、練習を行いました。1月末に、ヴェルディの強化部長から私に連絡がありました。その連絡の内容は「2月のヴェルディの宮崎キャンプに来てください。そこで、去年(20071215)、お父さんと東京でお話しした条件について正式に確認を行いたい。」ということでした。本来ならばヴェルディがこのことを次男の正式代理人になった東京マネジメント会社と確認すべきだと思いましたが、強化部長がこのことを最初から私に話していたこともあり、私と確認を行いたいということでした。

20082月に、ヴェルディの宮崎キャンプが開始しました。私は宮崎県へ行き、ヴェルディのキャンプを見学しました。3日間の滞在日程で、強化部長と、そして初めて取締役強化本部長にもお会いしました。去年1215日に東京で強化部長と話たこと全ての内容を取締役強化本部長と再確認を行いました。強化部長から受けた内容の通りでした。しかしその後、取締役強化本部長が次男のイタリアでの治療費のことに関する話を始めました。取締役強化本部長は「息子さんのイタリアでの治療費は、ヴェルディ側が去年9月にお父さんと話した時、全ての経費はマネジメント会社に立て替えてもらい、息子さんの怪我が完全に治ってから、実際の経費を計算し、外科的な治療費とリハビリの治療費はヴェルディの負担となり、その他の経費となる交通費や宿泊費、食費や通訳費、通話料などの分は息子さんの負担となります、という約束をしました。そのとき、お父さんもこれに同意していただきました。イタリアでの息子さんの全ての治療費の計算をすると、4,961,070円になります。その内訳としては、外科的な手術費として456,799円、リハビリの治療費として1,881,150円です。残りの2,623,121円は交通費や宿泊費、食費や通訳費、通話料です。本来ならば、ヴェルディ側が2,337,949円負担し、残りの2,623,121円を息子さんが負担することになります。しかし、外科的費とリハビリ治療費はヴェルディが思っていたより高くかかりました。なので、マネジメント会社にも一部分負担すべきではないかと思いました。このマネジメント会社にとって、息子さんは投資であることは事実です。なので、ヴェルディ側は新しい内訳を考えました。ヴェルディの負担分を1,389,971円として、マネジメント会社には1,221,881円負担してもらおうと考えています。なので、息子さんの負担分は2,349,218円になります。お父さんが、これで良いということであれば、ヴェルディ側がマネジメント会社と交渉を行い決定したいと考えています。その後、お父さんに息子さんの2008年シーズンの条件と、その治療費の新しい内訳の正式な文書を送ります。」という、具体的な内容を伝えてきました。この話は、私にとって大きな衝撃でした。ヴェルディの相次ぐ「裏切り」に思い、ヴェルディというクラブがとても小さなクラブにしか見えませんでした。しかし、私にとって何よりも大事だったことは次男の怪我が治ることでしたので、私はヴェルディ側の条件と案に同意しました。しかし、年俸360万円の次男が、治療費の自分負担分の2,349,218円を東京マネジメント会社へ返済することは不可能だと思いました。

しばらくして、マネジメント会社から私に連絡がありました。その連絡の内容は「ヴェルディ側から連絡がありました。宮崎でお父さんとヴェルディとの話し合いの内容をお聞きしました。会社側としては、ヴェルディが決めた治療費の内訳には同意します。会社が治療費の一部分を負担しても構いません。また、息子さんの2008年シーズンの条件について、会社がヴェルディといろいろな相談を行いながら決めたいと思います。その結果を文書でお父さんに報告します。お父さんがこれでよろしければ、正式に決定いたします。」というものでした。そこで、私が心配している次男の治療費の負担分の返済の話しをしました。するとマネジメント会社は「お父さん気にしないで下さい。息子さんの負担分の2,349,218円の内600,000円も会社の負担にします。残りの1,749,218円を分割で返済すればよろしいです。」と、協力を申し出てくれました。その提案に感謝し、20084月から200912月までの21回払いで返済することを約束しました。



Sunday, May 22, 2016


次男の苦しみと悲しみ (8)名門クラブの新たな疑惑が始まる



1215日に東京へ行き、ヴェルディの強化部長といろいろな大事な話をしました。その話の内容は、次男がイタリアでの治療を終え帰国した後、ヴェルディが次男の強い体をつくり、二度と怪我をしないように努めること、そして来季(2008)次男との契約を更新すること、年俸は2007年と同じ360万円とすること、今まで通りヴェルディの寮で生活を行うこと、そしてさらに、イタリアでの治療費を計算し、ヴェルディの取締役に検討をしたのち、次男とヴェルディ両者の負担分を決定することなどでした。また、2008年シーズンの次男の試合の出場についても、以下のような説明がありました。

 まず1つ目は、フォワード陣について2007年シーズンで大活躍しJ1昇格に貢献した2人のブラジル人選手の内、1人はそのままヴェルディに残るが、もう1人の選手はレンタル移籍の選手だったため、元のクラブチームに戻り、また、何名かの選手が移籍することによりフォワード陣が2人しか残らないこと。そして2つ目は、残ったその2人のフォワード陣と若手フォワードの次男を含めて3人になりますが、3人のフォワードだけではJ1で戦うことができないので、さらにストライカーの2(1人は外国人、もう1人は日本人)のフォワードを獲得する計画があること。3つ目は、ストライカー2人のフォワードを獲得し、フォワードが5人になりますが、その中でも次男の順位は5位であること。4つ目は、J1の試合数は34試合あるので必ず次男が試合出場の出番があると考えられるが、もし、万が一シーズンの半ばごろ(78)までに次男の出番がなかった場合、ヴェルディは次男が試合に出られるような他のチームを紹介し、レンタル移籍をさせたいと考えており、これで良ければ後でこの説明したことを文書にして送りたいということでした。

以上の説明を強化部長から受け「イタリアにいる次男に伝えて、検討したい」という返事と、東京マネジメント会社とマネジメント契約を結ぶ考えがある、ということを強化部長へ伝えました。それに対し、強化部長は賛成しました。その後、東京マネジメント会社の社長に会いに行きました。

東京マネジメント会社の事務所で、社長と2人のスタッフに会いました。社長からイタリアで治療を受けている次男の状況を聞きました。そしてさらに、会社として次男のために考えていることや計画などについての説明を受けました。私からも、次男がプロサッカー選手としてまず日本で実績を作って欲しいということを伝えました。そしてヴェルディの強化部長から先ほど聞いた次男に関する来シーズンのヴェルディの条件についても伝えました。これに対し東京マネジメント会社の社長からは「あくまでもこのヴェルディの条件は口頭約束ですが、息子さんについては帰国後検討を行い、ヴェルディに正式な文書を書いていただきます。今は焦る必要はありません。」という話がありました。その後、私は次男の代理として、この会社と2007121日に「選手マネジメント契約」を結びました。その日から、次男とヴェルディとの間には、第三者の東京マネジメント会社の役割が正式に始まりました。これで、私が次男のことをヴェルディと東京マネジメント会社に任すことになりました。その後、両者が次男のことをどう扱うかを心配しつつ沖縄へ戻りました。

次男は1222日、無事に帰国しました。怪我も完全に治り、サッカーに復帰出来る状態にまで回復していました。しかし、次男が帰国した時にはすでにシーズンが終っていたため、チームの練習は休みに入っていました。次男はイタリアで受けた指導と指示の通り個人でトレーニングを続けました。

次男が元気に帰国したことは、私にとって大変嬉しいことでした。しかし、次男の怪我はなぜ日本では治らなかったのかという、ヴェルディに対する疑問や不安が出てきました。日本では、110日から920まで8ヵ月以上にわたり治療を行っていましたが、完全に治りませんでした。しかし、イタリアでは、921日から1221までの3ヵ月で完全に治り、復帰出来る状態にまでなっていました。それはなぜでしょうか。次男は本当にイタリアにまで行く必要があったのでしょうか。日本国内に、この怪我を治してくれる医師が居なかったのでしょうか。それともヴェルディの「ケアの不十分」だったのでしょうか。いずれにせよ、次男のプロサッカー選手1年目(2007)は、怪我との戦いの1年でした。

 



Friday, May 20, 2016


次男の苦しみと悲み (7)馬鹿部長の謝罪と怪我を治すため、次男の動力



その翌日の105日にも、また強化部長から連絡が入りました。強化部長は「昨日お父さんを怒らせてしまいました。すみませんでした。ぜひ108日には自分とヴェルディの医師が沖縄を訪問して、改めてお父さんに謝罪をし、再度息子さんの怪我のことを説明したい」という連絡でした。私はその連絡に対し、強化部長にこう返事をしました。「謝罪なんかいりません。次男の怪我の説明も、強化部長が121日に沖縄を訪問したとき聞いています。だから説明なんか必要ない。とにかく、強化部長と医師の沖縄訪問をお断りします。」

しかし、強化部長から3日間連続で連絡があったことで、私はヴェルディに対して「怪しい」と思いました。なぜなら、気になったことが3つあったからです。

まず1つ目についてですが、次男の怪我を悪化させたのがヴェルディのメディカルスタッフではないならば、9ヶ月前に(121)那覇空港で強化部長が私に説明したことと完全に違ってきます。この時(121日)、強化部長は私に、怪我を悪化させたことに対して「謝罪」をしました。この「謝罪」は何のための「謝罪」だったのでしょうか。ヴェルディは、次男の怪我を悪化させた責任から「逃げたい」のではないかと思いました。

2つ目は、強化部長がヴェルディの医師を連れて再度沖縄を訪問し、改めて私に次男の怪我に関する説明を行いたいということです。私はすでに(121)怪我に関する説明を強化部長から受けていましたし、ヴェルディの医師の診断書も頂いていました。ここで考えられるのは、当時(121)強化部長から私が受けた説明と医師の診断書に書かれたことは「嘘」で、次男のイタリアでの治療により、その「嘘」がばれる可能性があるため、強化部長が私に改めて説明をしたいのではないか、と思いました。

3つ目は、たった3週間前に(9月半ばごろ)ヴェルディが次男をイタリアで治療を受けさせると決めましたが、そのことについて強化部長がヴェルディの幹部に伝えていなかったのではないかということです。その後に、幹部がイタリアで治療を受けることを知り、そのことがヴェルディ内で問題になったのではないかと思いました。なので、強化部長から連絡が入った際、私はヴェルディに対して複雑な気持ちになり、本当にヴェルディを信用していいのかどうかが分からなくなりました。ヴェルディに次男のことを任す自信がなくなってしまい、次男がイタリアでの治療を終えて帰国した後に、ヴェルディはどう対応するのだろうかと考えてしまい、夜寝ることが出来ない日が続くほど心配になりました。しかし、イタリアで一生懸命リハビリを行っている次男には、ヴェルディの対応や私が抱えている不安などを伝えませんでした。

10月下旬、次男の怪我の治療の面倒を見ることになっていた東京マネジメント会社から私に連絡がありました。連絡の内容は「イタリアで治療を受けている息子さんの状態は良くなっており、回復に向っています。しかし、私たちの会社と息子さんとの間には正式な関係がないため、イタリアの医師やリハビリ施設とのやり取りが難しくなっています。ですので、私たちの会社としましては、息子さんの治療の手続きをスムーズに行うために息子さんと正式なマネジメント契約を交わしたいと考えています。息子さんは未成年者であるため、お父さんが代理として契約を交わしていただけませんか。」というものでした。私はこの連絡に対して「検討させて下さい」と返事をしました。本来の私の気持ちは以前と変わらず、次男はプロのサッカー選手としてまだ実績がないため、会社とマネジメント契約を交わすのは見合わすべきだと思いましたし、この会社の社長と初めて会った時、この会社は力のない会社ではないかという印象を受けました。しかしこの会社は、次男との正式な関係がないにも関わらず、ヴェルディが出した条件に従って次男の治療費を立て替えてくれました。ヴェルディ側のいくつかの怪しい対応により不安を感じていた私は、次男はこの会社と契約を結んだ方が良いのではないかと考えました。このマネジメント会社との契約について前向きに考えることができたので、そのことをイタリアにいる次男へ相談の連絡を入れました。次男は、自分の治療費を立て替えてくれているこのマネジメント会社と契約を交わしたいという希望を私に伝えてきました。次男の意志を確認し、このマネジメント会社と契約を交わすことを決定しました。

122日にヴェルディの強化部長から連絡がありました。「ヴェルディのJ1昇格の報告と、来季の次男との契約更新を行うため、お父さんと会って話しをしたい。」という連絡でした。そこで私は、東京へ行ってヴェルディと次男との契約更新の話をしてから、東京マネジメント会社と契約を交わすことを考えました。





 次男の苦しみと悲しみ (6)名門クラブの無知識、嘘、だまし、イタリアでばれた。馬鹿部長が現実を逃れる。



次男は920日に、東京マネジメント会社の社員の1人とイタリアへ治療を行うため向かいました。921日には手術前の検査を行い、922日には無事手術を終えました。私は922日の夜イタリアに入り、929日まで次男の状態と手術後の日程の確認を行いました。さらに、次男を担当するスポーツ怪我専門の医師と会い、具体的に次男の怪我の状況を確認しました。この医師は、スポーツ怪我専門医師として、世界で有名な医師であるため、非常に忙しい人でした。しかし私と会う時間を作ってくれて、時間をかけて、丁寧に次男の怪我の状況の説明を行ってくださりました。この医師の説明によると「怪我をした時、安静にして普通の治療を行っていれば問題は発生しませんでした。しかし、怪我をしたまま長い間練習や試合に参加していたため、外科的な手術をしなければならない状態まで悪化してしまいました。長い間怪我を抱えて練習と試合を行ったことで、怪我の部分をかばうために下半身全てに重い負担がかかってしまいました。例えば、腰、骨盤、ハムストリング(股の裏)、ひざ、ふくらはぎ、かかと、足首などに悪い影響が出てしまいました。怪我が完治しても、しばらくの間はサッカーをしながらたびたびその怪我の悪い影響が出てくる可能性が高いです。その時、その悪い影響が出てきた下半身の部分には、すぐに治療を行えば大きな問題は発生しません。」ということでした。

 私は、この医師の説明を受けてヴェルディに対し、ますます不満な気持ちになりました。また、私のイタリアの1週間の滞在の最後には、愕然とした事実を聞きました。それは、次男とイタリアへ同行していた東京マネジメント会社の社員の1人は、ヴェルディの「悪質」なコーチスタッフの方の弟だったのです。そのことにもがっかりとした気持ちになりましたが、今はとにかく前向きな考えに切り替えて、次男の悪化している怪我が一刻も早く治ってほしいと思いました。次男は101日から軽いリハビリを開始し、108日から本格的なリハビリを始めるという日程でした。私はその前に1人で日本に帰国しました。

 日本へ帰国した後、103日に、ヴェルディの強化部長から連絡が入りました。その時の強化部長の態度は今までと正反対の態度で非常に驚きました。強化部長は、次男の怪我を悪化させたのはヴェルディのメディカルスタッフではないことや、次男は日本で治療を行うべきだったと、私に怒って話してきました。さらに、強化部長は次男のイタリアでの治療を考えたのが東京マネジメント会社であったため、この会社は責任を持って治療費すべてを負担して欲しいと言うのです。私はこの話を聞いて、がっかりしたと同時にますますヴェルディは無責任なクラブだと確信しました。しかし、強化部長と私は話し合い、次男の治療費はヴェルディ側の負担だけではなく、私も出来るだけ協力しますので心配しないでくださいと、約束しました。

 しかし104日に、再度強化部長から連絡が入りました。昨日話をしたにも関わらず、昨日と全く同じ話をされたので、私は我慢を失い怒りながら強化部長にこう言いました。「私がヴェルディを信用し、次男を15歳のときからヴェルディに預けて、この子はずっと頑張ってきました。ヴェルディのために、よい成績を残してきました。それなのに、なぜ次男が困っている時に、ヴェルディは助けてくれないのですか。次男は日本で治療を続けるべきであったならば、なぜヴェルディが次男をイタリアへ行かすことを決めたのですか。次男はイタリアで怪我を治してから、ヴェルディに戻り、頑張ってヴェルディのエースストライカーになるつもりですよ。」

Wednesday, May 18, 2016



次男の苦しみと悲しみ (5)名門クラブの馬鹿医師が「いばる」、馬鹿部長が「逃れる」 


東京マネジメント会社の社員の1人と次男は怪我の診断を行うため、731日~87日まで、イタリアへ行きました。世界一流選手の怪我を治すイタリアの有名なリハビリテーションセンターで3人の医師に次男は診断されました。レントゲンやMRI検査の専門の医師、外科専門の医師、そしてスポーツ怪我の専門の医師の3人に診断を行ってもらいました。その診断の結果は「右足側の鼠径(そけい)ヘルニアと仙骨(せんこつ)のゆがみからなる恥骨炎(ちこつえん)を患っている」という結果でした。治療方法としては、外科的な手術の治療方法と、リハビリとマッサージの治療の両方を行う必要があるということでした。この治療を行えば、約4560日間ほどで完全に復帰することができるということでした。

 87日に次男がイタリアから帰国し、その結果をヴェルディに伝えました。そして、次男は再びヴェルディで治療を始めました。それと同時に、ヴェルディ側も次男を治療のために、イタリアへ行かすかどうかを検討し始めました。

 4日後の811日に、次男はヴェルディの医師と強化部長に呼ばれました。医師は怒りながら次男に「イタリアでの外科的な手術の成功する割合は70%で、手術後お前の怪我が治ったとしても、それは手術のおかげで治ったという証拠がない。もしかしたら手術後に行うリハビリのおかげで治ったかも知れない。だからお前は手術する意味がない。また日本ではこの手術を行える人がいない。だから今まで通り日本でリハビリを続けなさい。治るまでどのくらい時間がかかるか誰にも分からないが、とにかく日本でリハビリを続けなさい。もしお前がイタリアへ行くことを決めたら、完全に復帰できるまで日本に戻るな。そうしないと、ヴェルディには責任がない」と、話しました。ヴェルディの医師は、次男がイタリアへ行くことを反対し、納得もしていませんでした。次男も私も、ヴェルディの医師の話に大きな衝撃を受けたと同時に、どうしてこの医師が次男に対して激怒しているかの理由が全く分かりませんでした。

 次男の怪我を悪化させたのは、この医師の下で働いているヴェルディのメディカルスタッフです。この医師が1月に発行した診断書には、次男が「サッカー(ゲーム)への復帰は最短で3ヵ月、場合によっては6ヵ月程度かかると予想しています」と、はっきり書いてありました。なぜヴェルディの医師が自分で診断し、診断書に書いたことを忘れたでしょうか。本来ならば、ヴェルディの医師とメディカルスタッフが決して忘れてはいけないことではないでしょうか。この医師の発言により、次男とヴェルディのメディカルスタッフとの間はお互いの信頼関係をほとんど失ってしまいました。しかし、次男の治療はいつものように続きました。                                         

その後、9月半ばごろまで約1ヵ月半の間に、強化部長と東京マネジメント会社と私との間でたびたび連絡を取り、次男はイタリアで治療受ける方向へと検討していきました。ヴェルディ側がイタリアで治療を受けられるようにと、前向きに考え始めました。しかし、イタリアでの治療費全ては東京マネジメント会社が見積もりを出すようにと、ヴェルディ側が条件を出してきました。なので東京マネジメント会社は、2ヵ月間イタリアで治療を受けた際にかかる経費を計算し、ヴェルディ側に報告しました。そしてその結果、次男をイタリアで治療させようということをヴェルディ側が決定しました。しかしここで、ヴェルディ側が非常におかしい条件を付けてきました。それは、全ての経費は東京マネジメント会社が立て替え、次男の怪我が完全に治ったら実際の経費を計算して、ヴェルディと次男で負担するという条件でした。この条件を具体的に見てみると、次男の外科的な手術とリハビリの経費はヴェルディ側が、そして残り全ての経費(交通費、宿泊費、食費、通訳費、通話料金など)は次男個人の負担になりました。東京マネジメント会社は、次男と正式な契約などを全く交わしていないにも関わらず、ヴェルディ側の条件に従って、全ての経費をとりあえず立て替えるということを約束してくれました。



次男の苦しみと悲しみ (4)名門クラブのメディカルスタッフの「無知識」と「悪質」行動



沖縄へ戻った後、不安な気持ちを抱えながらも、次男の怪我の状況を確認するため、次男と頻繁に連絡を取り合いました。まずは、彼の怪我を治すことが一番大事だと思い、彼には私が抱えている不安な気持ちを隠していました。

1ヵ月半治療をしていても怪我の状況がよくならないため、ヴェルディの強化部長が私に約束したとおり、そして次男の希望により、ヴェルディ以外の医師に診てもらうことになりました。38日に、日本全国で有名な「股関節」専門の、そしてJリーグの上のチームも担当している医師に診断していただきました。その結果、次男の怪我は悪化しているものの、特別なマッサージと治療を行えば確実に治るという結果でした。その特別なマッサージと治療方法をヴェルディのメディカルスタッフに伝えました。しかし、メディカルスタッフは、次男がヴェルディ以外の医師に診断を受けたことに難色を示していました。そのため、メディカルスタッフの方々は、勧められた特別なマッサージと治療を徹底的に行いませんでした。その後も、次男は月に1回のペースでその股関節専門の医師に診てもらうことになり、418日、530日、627日に診断を受けています。3回の診断の結果、怪我の状態はよくなっているが、マッサージと治療はまだ不十分という結果が出ました。股関節専門の医師が、毎回次男と同行していたヴェルディのトレーナーの方に「もっと徹底的に治療をするように」と伝えました。

 次男の怪我の状態にずっと注目していたのは、以前から次男のことに注目していたあの東京マネジメント会社でした。6月末に、その会社の社長から私に連絡が入り、息子の怪我の治りが遅いため、外国の医師に診断する方法もあるという案を私に伝えてきました。私は「今のところはヴェルディにお任せしているため、しばらくの間様子を見ます」と、社長に返事をしました。

 72日に、ヴェルディの強化部長が次男を食事に誘い、怪我に関する話しをしてくれました。その中で、次男は外国で診断する方法があることを強化部長に話しました。この次男の話に対して強化部長は、積極的にブラジルの医師を勧めてきました。

 725日に、いつも同行していたヴェルディのトレーナーが忙しかったため、次男が1人で股関節専門の医師の診断を受けに行きました。診断の結果は、次男の怪我の状態はだいぶよくなってはいるが、ケアがまだ不十分で痛みが残っているから治りが遅くなっています、ということでした。「ケアの不十分」の意味を医師が次男に次のように話してくれました。「おそらく、ヴェルディのトレーナーの皆さんはトップチームの試合に出ている選手のことで忙しいから、あなたには手が回らない可能性が高い。」

次男の状況を気にしている東京マネジメント会社社長と、ヴェルディのコーチスタッフの「悪質」な方は、怪我を外国で診断する案をヴェルディに勧めました。ヴェルディ側は検討をし、東京マネジメント会社が勧めてくれたイタリアの医師の診断を受けるようにと考えました。ただし、その診断をイタリアで受けるため、すべての経費を東京マネジメント会社に立て替えるようにと、ヴェルディが条件をつけました。それに対し東京マネジメント会社側は、ヴェルディの条件に従い全ての経費を立て替え、次男をイタリアへ連れて行く結論を出しました。おかしなことに、次男との間に正式な関係が全くない東京マネジメント会社が、次男の怪我の面倒を見るようになっていました。6ヵ月以上ヴェルディの元で治療しても、怪我が治らなかった次男にとっては、この東京マネジメント会社の対応にただただ感謝でいっぱいでした。しかし私は、このことにより次男がこの会社にはますます影響されてしまうのではないかと感じました。

Monday, May 16, 2016


次男の苦しみと悲しみ (3)「悪質」のコーチと「軽い」社長



早く次男の怪我の状況を知りたかった私たちは、次男へ会いに行きました。3年ぶりに時間をかけて次男とゆっくりいろいろな話をすることが出来ました。まず、怪我の状況は110日から始まった治療の成果を調べるため、222日にMRI検査を受けました。検査の結果は残念なもので、約1ヶ月半治療を行ったものの、むしろ状況が悪化しているという結果が出ました。この結果にはショックを受けましたが、さらにショックを受けたのは次男との話で出てきた東京マネジメント会社に関することでした。何と、この会社に次男を紹介したのは、ヴェルディのコーチスタッフの方だったのです。このコーチスタッフの方は、次男がヴェルディに入団した時から注目をしていたようです。次第に次男と仲良くなっていき、ヴェルディの内部の秘密を話したり、ヴェルディの多くの欠点などを次男に話していたようです。また、次男がヴェルディに入団した2年目には、このヴェルディのコーチスタッフの方が次男(当時16)をその東京マネジメント会社に紹介し、たびたびその会社社長に次男を会わせていたようです。その時に、いろいろな話をしながら豪華な食事をご馳走していただいたこともあったようです。この話を初めて聞いた私と妻は、大変大きなショックを受けました。それは、次男がヴェルディのコーチスタッフの方とその会社社長の2人に、大変強く影響を受けていると感じたからです。ヴェルディに対して不信感を持っている私は、その不信感を次男には一切見せずにアドバイスをしました。それは、ヴェルディに対する忠実さを持って、そしてヴェルディのために一生懸命頑張りなさいということです。この話をした後、次男から聞いたことを確認するためにヴェルディのコーチスタッフの方と、その会社社長と直接会おうと考え、2人に連絡を入れて3人で会うことになりました。次男から聞いたことを確認するように話を聞きましたが、2人の話を聞いて大きなショックを受け、また悲しく切ない思いになりました。まず、ヴェルディのコーチスタッフの方が私に、ヴェルディ内部の多くの欠点の説明をし、次男をそのままヴェルディに置いておくとサッカー選手として将来がないと強く私に言い聞かせました。そしてさらに、ヴェルディには次男のような良い人材を「育成」させる指導者がいないという説明も行いました。だから早めに次男を助けるために、ヴェルディから撤退させてヨーロッパでプレーできるようにしましょうと、話してきました。私はこの話を聞いて、このコーチスタッフの方に不安を感じました。なぜなら、ヴェルディで働いてヴェルディから収入を得ているはずの人が、どうして私にこのような絶望的な話しをするのだろうかと思ったからです。なぜ未成年者の次男に、このような話しを行うのだろうかと思い、私はこのスタッフの方を「悪質」な人間と見てしまいました。

一方、スポーツ選手東京マネジメント会社社長の話しも聞きましたが、非常に「軽い」社長だと感じました。この社長は、次男を商品化して儲かるという考えがあり、たくさんの甘い話をしてきました。例えば「あなたの息子の(DNA)は日本人だけではないから、日本でプレーさせるのはもったいない」とか「あなたの息子は優しい子だから、日本よりサッカーのレベルの高い国でプレーさせたい」という話をしてきました。約2時間、この2人と話をした後に、ますます心配になり悩みましたが、それを2人に見せずにとにかく次男は今怪我をしているので、しばらくの間様子を見ましょうと、2人に話してその日は終わりました。

コーチスタッフの方と東京マネジメント会社社長と話をしてから、さらに私は不安になっていきました。というのは、この2人は未成年者の次男のことを計画的に考えている印象を受けたため、ずっと次男に強い影響を与え続けるのではないだろうかと思ったからです。そしてこの2人と会って話したことを、ヴェルディの強化部長に伝えなければならないかどうかということに悩みました。もし、強化部長に伝えたことが2人に知られたら、次男はいじめを受ける可能性が高いと思いましたし、伝えなければ離れた沖縄に暮らしている私が次男の状況を追跡できず、次男は2人に完全にコントロールされてしまうと思いました。結局、2人に会ったことを誰にも伝えず様子を見ることにして、沖縄へ帰ることにしました。



キングス優勝おめでとう!


 

沖縄県民の皆さん、可愛くて愛している子供たちにはバスケや野球などをさせてください、サッカーだけは絶対させては行きません。日本サッカー界には、差別や嘘やだましなどなどが多いサッカー界です。日本サッカー界では、「実力」というものは存在しません。日本サッカー界が子供たちの夢と希望を絶望的にしてしまうサッカー界です。詳しくは、このブログを最初から最後まで読んで下さい。

Sunday, May 15, 2016


次男の苦しみと悲しみ (2)大きなショックの卒業式と悪質のミーティング



私たちはまず、次男の卒業式に初めて次男が3年間過ごした高校を見学し、担任の先生と面談を行いました。その時初めてこの高校が神奈川県の「少年院」施設のような高校であり、知名度と評判が低いことが分かりました。次男の担任の先生との面談では、さらに驚くような事実が分かりました。それは、この高校が神奈川県の「不良少年」を集めて、卒業するまでに礼儀正しい生活を教え込み無事卒業させることが、この学校の目標だったのです。この高校は生徒の知識を深めることや大学進学などに積極的な学校ではなかったのです。このことが分かった私と妻は非常に大きなショックを受け、ヴェルディに対する「恨み」を持ち始めました。なぜなら、沖縄に暮らしている私たちには、ヴェルディが沖縄の琉球大学付属中学校を卒業した次男をスカウトしてきた時、この神奈川県の高校へ進むことが次男に相応しいと説明していたからです。当時のヴェルディの責任者が私たちに、この高校はヴェルディとの付き合いが長くヴェルディの寮と練習場にも近いからと勧めてきました。結局、次男はこの高校を卒業しましたが、中学校で得た知識のままで、新たな知識を得られないまま、大学へ進むことも社会人になることさえも不可能に近い立場に立たされてしまったのです。次男には、サッカー以外の道の全ての道が閉ざされてしまいました。親にとって好ましくない状況であると同時に、非常に悲しい出来事でもありました。このヴェルディの「嘘」と「だまし」により、次男の将来がサッカーのみに制限されてしまいました。

卒業式の後、東京のスポーツ選手の東京マネジメント会社との面談のため、ヴェルディの事務所に向かいました。そこで、ヴェルディの強化部長とその東京マネジメント会社社長、そして私たち夫婦が会って話し合いました。話し合いの結果、次男はユースで活躍してきたもののプロ選手としては始まったばかりで、さらに、怪我で療養中であることから、マネジメント契約を交わすことを見合わせる、ということになりました。私はこの結果に満足しましたが、面談の間にヴェルディの強化部長と東京マネジメント会社社長の間には、何か問題があるような感じを受けました。というのは、東京マネジメント会社社長が何を言っても、強化部長は受け入れなかったからです。しかし私は、その時はあまり気にしませんでした。



 次男の苦しめと悲しみ(1)名門クラブドクターの嘘とだまし


今回の強化部長の沖縄訪問で、ヴェルディの本当の姿が明らかになると私達夫婦は思っていました。しかし、強化部長から頂いた次男の健康診断書と、強化部長からの口頭説明の2つを分析すると、この訪問には説明や謝罪以外の別の意味があるように思いました。まず、理解できないのは、医師が健康診断書に示した治療原則は、安静とリハビリですが、この医師の指示の元で働いているはずのメディカルスタッフが独自の判断で次男を6ヶ月間休ませずに、試合や練習に参加させたことです。健康診断書には、当時日本サッカーの有名な「中田」選手の名前が挙げられていましたが、それで私達は安心させられました。けれども実際には「だました」ことになります。また、強化部長から受けた口頭説明には不信な点が多いように感じました。例えば、メディカルスタッフの説明では、恥骨結合炎は休んで治る怪我ではなく試合や練習を行いながら治る怪我である、ということであったが、明らかにヴェルディの医師の診断と異なっています。そしてさらに、半年の間、最新のMRI検査ではなく、レントゲン検査をたった1回しか行っていませんでした。今回の強化部長の説明により、次男の怪我を悪化させたのは、このメディカルスタッフの「怠慢」と「認識と知識不足」ではないかと思うようになりました。そして私と妻は、ヴェルディには組織的な問題があるのではないかと感じるようになりました。また、ヴェルディの運営に関して厳しい経済状態であることを私と妻はよく知っていたので、強化部長が私達に沖縄東京往復のオープンチケットを買って渡したその行動にも不安を感じました。ヴェルディがこのような対応をするのは、もしかしたら次男の怪我は危険な状況で、それを私達へ説得するために来たに違いないと思いました。強化部長の短い沖縄訪問を「悲観的」に受け止めると不安材料が非常に多くなってしまいます。なので私と妻は、素直で積極的な対応をしてもらったと受け止めるようにして、再びヴェルディを信じようと決心しました。次男の怪我が一日でも早く治るよう、夢と希望を持ち続けました。

 1月下旬になると、突然、東京にあるスポーツ選手のマネジメント会社から私に連絡が入り、次男とマネジメント契約を交わしたいという考えを示してきました。その東京マネジメント会社は、次男がユースの時の活動に注目していたようで、いろいろな計画を考えている様子でした。その連絡に対して私は「息子に関することなら、すべてを東京ヴェルディにお任せしていますので、ヴェルディに連絡してください」と、返事をしました。すると東京マネジメント会社側は「あなたの息子は未成年者のため、契約を交わす際にはヴェルディより父親の許可が必要となります。」と、話を続けてきました。なので私は、東京マネジメント会社から連絡が入ったことをヴェルディの強化部長に伝えました。この話を聞いた強化部長は「こういう会社は無視するように」と言ってきました。このやりとりの後にもこの東京マネジメント会社から、ヴェルディと私たちへ何度か連絡がありました。ちょうど次男の高校の卒業式への出席を予定していたので、東京に行った時に私たち夫婦とヴェルディ、そしてその東京マネジメント会社と直接会って話し合うことに決まりました。
200733日、次男の高校の卒業式へ出席することと、怪我の状況確認、そして2007年シーズンのヴェルディの開幕戦の観戦、スポーツ選手の東京マネジメント会社との話し合いなどのために、私と妻は東京へ行きました。