Tuesday, June 7, 2016


次男の苦しみと悲しみ(24)苦しみの中で、新たな一ページ始まったが、大人の喧嘩で選手は犠牲になった!!!

2011年シーズン

2011122日、次男の5年目のプロサッカー選手としてのシーズンがJ1のモンテディオ山形クラブで始まりました。モンテディオ山形クラブが次男を獲得したことは、次男自身も、そして私達家族も大変感謝しました。しかし、チームが次男を獲得したときには、すでにチームの構造や形や中心選手たちなどはほぼ決まっていました。当時の監督が、以前から次男の実力を認めていたため、将来的に使う若手選手として獲得した、という印象でした。そのため、正式な試合へ出場するチャンスはすぐに与えられないと、次男も私も予想していました。試合へ出場するチャンスが訪れるよう、次男は一生懸命頑張り、将来的にモンテディオ山形チームの中心選手になれるよう決心しました。

次男は、モンテディオ山形での1年目の練習や練習試合に励みながら、調子のよい時もありましたが、悪い時もありました。悪い時というのは、怪我をした時でした。次男はその1年の間に、足首とひざとハムストリング(股の裏)に軽い怪我をしました。このような怪我することは、以前イタリアで治療を行った際、担当した専門医師から話がありました。2007年に次男が東京ヴェルディで怪我をした時、東京ヴェルディのメディカルスタッフは次男を休ませずに、約半年間試合や練習などに参加させていました。その結果、怪我が悪化してしまい、日本では治せなかったためイタリアで治療を受けることになりました。イタリアの専門医師からは、怪我をしているのに試合や練習に出たことで、その怪我をかばうために下半身のさまざまな箇所に悪い影響が出てしまったことや、怪我が治った後でもしばらくの間、下半身に痛みが出る可能性があること、もし痛みが出た場合、早めに治療を行えば問題にはならない、などという話がありました。イタリアの専門医師からの話の通り、次男にはチェコのチームに所属していた頃から、たまに下半身に痛みが出ましたが、早めに治療をしていたため全く問題がありませんでした。モンテディオ山形に移籍した後にも、また下半身の別のところに痛みが出始めました。なので、早めにチームのメディカルスタッフの皆さんの協力を頂きました。経済的状況が許す限り、チームの定休日を利用して東京まで足を運び、治療を行ったこともありました。結局、次男のモンテディオ山形での1年目は、調子が良い時にも悪い時にも正式な試合に出場するチャンスが訪れませんでした。しかし、若手選手の次男が山形チームに入団した時自分が決心したことを忘れず、将来的にチームの中心選手になれるようにと一生懸命頑張っていました。しかし、大変残念なことに山形チーム全体の状況が悪化してしまいました。リーグ試合の悪い結果が続き、J1から J2に落ちることになってしまったのです。このような状況により、山形クラブ内ではさまざまな動きがありました。

まず、次男の力を認めてくれた監督が解雇され、監督自身が注目していた選手や、監督の推薦で山形に入団した選手数名も解雇されました。その中に、次男も含まれていました。チームの選手たちの間では、監督の解雇は理解できても、監督が推薦した選手をなぜ解雇するのかという疑問が出てきていました。選手たちのその疑問の答えは、後に選手たち自らの調べによって明らかになりました。実は、山形のマネジメントと監督の間に、さまざまな問題があったことが分かったのです。山形のマネジメントは、チームがJ2に落ちたことを利用して、監督に対する報復を行ったのでした。これから山形チームのためにも、自分のためにも頑張ることを決めていた次男にとって、解雇されたことは最大のショックでもあり、また悲しいことでした。

次男のプロサッカー選手としての5年目のシーズンと、モンテディオ山形チームでの1年目のシーズンが悔しくて悲しい結果に終わってしまいました。しかし、山形チームでの短い1年間の間に出会った山形県の皆さんの「優しさ」は、いつまでも忘れないと次男は私に話してくれました。






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